その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ私が抱き続けていた疑問は、お子さんがひきこもりへ到り長期に渉って継続してしまうご家庭と、すったもんだがありつつも再び通うべき所へ通い続けられるご家庭を、分かつ決め手は一体なにか?ということです。
ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘への対処を学ばせて戴く、との必用も無論ありましたが、そもそもは私自身の好奇心が喚起して止まない疑義。そして当事者さんへの敬意と仁愛が主導するSense of Wonder の俯瞰を広めるにつれ、ひきこもりに陥るか否かを分かつのはお子さんが抱える障害特性の軽重より、むしろお子さんを取り巻いていた育ちの環境=家庭の文化が累積してきた日常である旨、徐々に拝察されて参りました。
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2019-01-07
みんなから取り残されるのは嫌なんだ。山田
『とにかく みんなができることを、僕も できるようになればいいんだ。これ以上 みんなと距離を離されたくなかった。
クラスでギターが流行った。それで僕も母親にギターを買ってもらった。
父親が昔 ギターをやったていたので、教えてもらうといい と母親から言われたので父親に教えてほしいと頼んだ。
そしたら「いそがしくて教えられない。」と断られた。仕方がないので楽器店で購入した教則本を見て練習した。でも わからない。
そのうち、ギターの弦が切れてしまった。どうして良いのか わからなかった。「楽器店に聞きに行けば良いだけ。」今なら そうわかります。
しかし、その時は怖くて聞きに行けなかった。でも みんなと一緒にギターの話題について行きたかった。だから、ギター教室に行くことにした。
ギター教室に友達がいると怖かったけれど、店の人に聞いたら若い人は僕だけだった。この機会をものにすれば、みんなと肩をならべられる。しかし、逃したら、死ぬしかないと思っていたので、毎日毎日 気が狂ったように練習した。
ギターの先生は おじいさんだった。でも、僕が一生懸命やっていたので、いつも嬉しそうにしていた。』***
2019-01-08
今まで生き続けていられた理由。山田
『以前に手を叩いて音符を表現するテストがあった。
「タン、タン、タタンタ タタタ」そんな風に手で叩く。 僕は できなかった。全く だ。
できなかったのはクラスで僕だけだった。死にたかった。もういいだろう。勘弁してくれ。
そんなに僕を みんなの前で笑い者にしたいのか!!
「そんなリズム音痴バカがギターを弾くだと。」音楽の先生の心の中が読めていた僕。
みんなの期待通りに めちゃくちゃ弾こうかと考えた。そんな時に、ギター教室の おじいさん先生のことが浮かんだ。
僕が弾きやすいように、わざわざ楽譜を簡単にしてくれたんだ。前日に僕を励ます為に電話もくれた。だから、おじいさん先生の為に弾こう と思った。
僕が弾く前のクラス。ざわついている。笑うのを待っているんだろうな。
でも、そんなことは関係ない。「君は すごいよ。4ヶ月で ここまで弾けることができる人は そうはいないよ。」おじいさん先生の言葉を思い返して、自分に言い聞かせた。
弾き始めたら、教室が静まり返った。女の子が、「すごい」と発した言葉が耳に入った。3分を過ぎても弾いてやる。 時間なんか関係ない。
どうだ お前たち!! そんな気持ちになるのかと思っていたら、そんなことは どうでもいいや と思った。 』
***
山田さんが二日間に渉って丁寧に綴って下さったエピソード、支援の専門家や親御さんの多くは「やっぱり失敗体験を上回る成功体験が」とか「ウチだって習い事させてたのに(もしくは「ウチも習い事させてれば」)」とか、お思いになってしまうのかも知れませんね。
あるいは山田さんご自身も、『手を叩いて音符を表現するテストが』『できなかったのはクラスで僕だけ』という大失敗を、『朝起きてから、夜寝るまで』『気が狂ったように練習した』ギター演奏の『生まれて初めて数学以外で褒められた』大成功で、逆転叶ったことが『死にたいと毎日思っていた僕が、死なないでいられた』理由とお考えかも知れない。確かに起きた『出来事』だけを御覧になれば、全くそのとおりでしょう。
さりながら生来の五感や認知に凸凹を抱える当事者さんの、成功より失敗の方が遙かに多い日常を支え、社会と物理的な距離を置かずとも生きていける「知恵」を育むには、彼らの感情や認知へピッタリ寄り添う視点が必須。それこそ青木先生が実践なさっておられるように、当事者本人よりも当事者の自己を深く広く理解する俯瞰が必要です。
その見地に立てば、『死にたいと毎日思っていた』山田さんが『死なないで いられた』真の理由には、たまたま入門した教室でギターを教授して下さった『おじいさん先生』と、『励ます力』で対等な関係性を築いて戴けた旨をこそ挙げるべきでしょう。
「みんなと同じ」育ちが叶わなかった己への失望が蘇り、『めちゃくちゃ弾こうか』と自暴自棄になりかけた時も、『おじいさん先生の為に弾こう』と折れかけた心を立て直せたこと。そして遂に「みんなと同じ」であろうとこだわり続ける呪縛からも解き放たれ、『そんなことは どうでもいいや』と己自身の要するもの・求めるものへ真摯に打ち込む歓びを、たった1日と言えど味わうことができた成長体験は、全て『おじいさん先生』との平らかで大らかな関係性=メンタリングが育んで下さったものなのです。
「自信が無いから、ひきこもるしか無い。」
当事者の皆さんは一様に、社会から物理的に距離を置いた理由を、そう述べます。すると親御さんも支援の専門家も、ご自分の五感や認知だけを鑑みて「失敗体験を上回る成功体験があれば自信がつくはず」とお考えになってしまう。
されど当事者の自己を当事者本人より深く広く理解する俯瞰に立てば、彼らの不全感が「自分は社会に於いて尊い存在。ゆえに他者を信じ頼みにして良い」という拠り所、すなわち自己承認の不備不足に根ざしていると分かってくる。
なればこそ親御さんが、どれほど懸命に「かわいい子」「大切な子」と我が子へ呼びかけようと、遺憾ながらほとんど功は奏しません。彼らは親御さんの「かわいい」「大切」と仰る拠り所が、肉親という個人的な関係性に過ぎないと認知しているからです。
当事者の皆さんが希求するのは、迎合ではなく受容を/依存ではなく信頼を/情緒的庇護ではなく合理的配慮を以て「君は社会に於いて尊い存在。ゆえに他者を信じ頼みにして良い」と担保して下さるメンターとの、より社会的かつ普遍的な関係性なのです。
【拙ブログの関連記事】『メンターをさがせ!』 『支援は 続くよ どこまでも』
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