その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ私が抱き続けていた疑問は、お子さんがひきこもりへ到り長期に渉って継続してしまうご家庭と、すったもんだがありつつも再び通うべき所へ通い続けられるご家庭を、分かつ決め手は一体なにか?ということです。
ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘への対処を学ばせて戴く、との必用も無論ありましたが、そもそもは私自身の好奇心が喚起して止まない疑義。そして当事者さんへの敬意と仁愛が主導するSense of Wonder の俯瞰を広めるにつれ、ひきこもりに陥るか否かを分かつのはお子さんが抱える障害特性の軽重より、むしろお子さんを取り巻いていた育ちの環境=家庭の文化が累積してきた日常である旨、徐々に拝察されて参りました。
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2019-01-15
道でパニックになって倒れた。山田。
『マンションから外に出た。色々な音が僕の耳の中に入ってきた。味噌汁の匂いも。
近くをうろうろしていたら、大通りに出てしまった。そこには たくさんのサラリーマンの行列が会社に向かって行進していた。 名古屋駅から伏見まで途切れることのライン。それを見た僕の顔が引きつった。
顔が変形した。体がフリーズした。早く安全な場所に移動しないと と思ったけれど、手足が動かない。
道路に しゃがみこんでしまった。姿勢を保つことが できなくなって、道路に倒れ込んだ。「山田さん、大丈夫だよ。さあ、帰るよ。」そう言ってスタッフが ぼくを抱き起こしてくれた。
ぼくの後をつけていたんだ。
手足がバラバラになってしまって、歩くことができない。上下の歯がガシ、ガシと勝手に動く。
スタッフが電話をするけれど、相手は出ない。「5分ここで待っていてください。」とスタッフが言って、走り出した。
5分とかからずにスタッフが戻ってきた。台車を押しながら。
「ここに乗ってください。私が押していきますから」ぼくは台車に乗せられて、部屋まで戻って行った。
悲しかった。涙が溢れて仕方がない。』
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「見えないものは ないものと同じ。」
サポートセンターでは当事者さんへ身辺の整理整頓を伝授する際、ヒロさんもジャイアンさんも山田さんもそう教えられたそうですが、この文言ほど彼らが生来抱えておられる五感と認知の凸凹を、的確明瞭に表現した惹句はありません。
ふだん身に付けている服や靴、いつも使っているスマホやゲーム機といった持ち物が、「見えない」所へ仕舞い込まれた途端「ないもの」になってしまうように、その時その時の感覚や感情は認知できても、あらゆる「見えない」概念は当事者さんからすれば「ないものと同じ」です。その所以は「見えているものが すべて」だからでしょう。
つまり彼らの五感と認知は、その瞬間ごとの感覚・感情だけで、いっぱいいっぱい。例えば『色々な音』を聴覚で『味噌汁の匂い』を嗅覚で、鋭敏精細に感受しながら『たくさんのサラリーマンの行列』で視覚も強く刺激されると、脳が勝手に身体の制御を放棄してしまう。『顔が変形し』『体がフリーズし』『姿勢を保つことが できなくなって』『しゃがみこんで』『道路に倒れ込んだ』次第は、至極自然な成り行きなのです。
とは言え山田さんの身に生じた「変事」を、サポートセンターのスタッフさんが『大丈夫だよ。さあ、帰るよ。』と冷静的確に対処できたのは、無論しっかりとした訓練を経たからこそ。そしてヒルマ小母ちゃんが「至極自然な成り行き」と沈着平易に解題できるのは、物心ついた頃からの好奇心に沿って学ぶ機会を頂戴叶ったお陰様でしょう。
もし我が子に生じた「変事」へ、私が育て方を学び直せばとか私が心理学を勉強すればとか、親御さんの自己承認を修復するための自己投資という発想しか浮かばないのであれば、遺憾ながらご家庭の埒外でメンターを探す他に実効する方策はありません。
僭越な物言いは誠に恐縮ながら、「親になる」という選択をなさった旨こそが自己投資というご覚悟で、「子の心」へ寄り添おうとなさる滅私のご意志が据わっておられない限り、親子を隔てる五感と認知の乖離を乗り越えることはまず不可能だからです。
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