2017年9月29日金曜日

緘黙する子 と 優しいお母さん

「変なお母さん」好奇心主導な傍目八目から拝見すると、大抵の「良いお母さん」は子育てという行為を「みんな」が経ている「普通」に倣えば上手く行く筈、と一括りに思い込んでおられるようにお見受けします。お子さんが「普通」の枠から明瞭な逸脱を呈していても、その因果へ「疑問を持って 詳しく調べる」工夫を凝らし「特別」な育み方を模索しようとはなさらず、「普通」の枠内へ嵌め込まれた「みんな」と足並みが揃わなければ、ご家庭の庇護へ囲い込んでどうにか始末を付けねばと腐心なさるばかり。

「普通」の枠に嵌め込まれたままの地平をわざわざ離陸せずとも「みんな」へ倣うだけで大過なく平穏に齢を重ね所属を得て来た「良いお母さん」達へ、私は不躾な批判を加えようとしているわけではありません。できる限り効率良く仕事や家事を片付けて確保した時間に、できる限り効果が高そうなノウハウの実行へ尽力するのが「良いお母さん」にとって精一杯の頑張りなのだと平らかに了解した上、お子さんが「特別」であるゆえに直面している難儀を果たしてノウハウで解決できるのかと懸念しているのです。

他所様の親御さんをあげつらうのは、拙ブログの本来の意図ではありませんが……
『母の思い。30年間ひきこもった元東大生』と題し疑義を呈して下さった、サポートセンター名古屋「東大さん」こと大野さんへお応えしようというのが今回の趣旨です。

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大野さんは、有名中高一貫校から現役で東京大学へ合格。しかし『良い就職』を目的に東大の修士課程へ進んだところで不登校に陥り、どうにか修了へ漕ぎ着けたものの指導教授の推薦は当然戴けず。『気力を振り絞ってなんとか社会復帰したいとアルバイトにも挑戦』なさっても叶わず、2013年の3月に『30年近くぶりで、家族以外の人と会うことに』なるまでひきこもり、今は50代後半……私より数歳、年長でらっしゃいます。

大野さんのひきこもりは、『30年間、母は僕を一度も責めませんでした。』『「諦めない限り、必ず希望はあるんだ。」と励まし』支え続けて下さったお母様にせよ『「最後に親孝行できてよかったね。お母さんの死に顔は微笑んでいたよ。間に合ったんだよ。」と』語りかけて下さったお姉様にせよ、生い育ったご家庭ではむしろ「ひきこもらせない文化」が醸成されていたと拝察される稀なケースです。大野さんご自身さえ、
他人の話を聞きますと、「20年間もよく1人で部屋の中に入られたな。」と思ってしまいます。でも僕は30年間ですからね。最近は、本当に30年間ひきこもっていたのかと自分で疑ってしまうことがあります。
と疑義を呈しておられる。どれほど「得意を伸ばす」ことで知能と知識を先鋭化させても、迂闊に「苦手を避けて」他者と繋がり社会と呼応する知恵の育ちの遅れを放置すると −−− 「普通」の枠へ嵌め込まれた「みんな」からすれば大野さんが辿った進路はエリートコースですが −−− 五感や認知に凸凹を抱えている自閉圏のお子さんにとっては自身の人生を幸せに生きる力が削がれてしまう旨、克明に思い知らされるケースなのです。

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それでは、ご自分で俯瞰なさっても尚、ご家庭の環境も学校への適応も非の打ち所が無かった大野さんが、なぜ『30年間ひきこもっていたのか』?

解題への手がかりは、かつて大野さんと一緒にサポートを受けていた俊介さんから頂戴した遣り取りの中で、見つけることができました。
そういえば、ヒルマさんという方が僕たちのブログを解説してくださったんですよ。その中で、大野の頭が硬いことを30年近くひきこもったのでこんな風になったのかと僕が思って書いたら、そうじゃなくて、それほどの強い特性ゆえに30年間も引きこもったんだと教えてくれました。 なるほどそうなのかと気付きましたよ。
俊介さんは、非常に穏やかで衒いの無い素直なお人柄。五感の凸凹が激しい特性ゆえ −−− 拙ブログで常用させて戴いている『五感の凸凹』という表現、俊介さんの文章に由来しています −−− 視覚過敏に起因すると考えられる『人の視線が怖い』という感覚のために、大学へ入った直後から10年間ひきこもってしまった御仁です。とにかく『能天気な僕』と自称なさるほど安穏な人格者にも関わらず、俊介さんをして『とても頭が固いというか融通がきかない』と呆れさせるほど、大野さんの認知の凸凹は強烈らしい。

つまり、お母様をはじめとするご家族が「ひきこもらせない文化」を醸成 −−− お子さんの生まれ持った多様性を「個性」として受容し、五感の凸凹へ自ら配慮する生活習慣を稽古付けた上、認知の凸凹で失敗するフリーハンドを許容 −−− して下さったとしても、当事者が『とても頭が固いというか融通がきかない』タイプである場合は独りでに自らの脳内で「ひきこもる文化」を構築する危惧を潜在させている、ということでしょう。

そして一旦、頭の中で当事者独自の「ひきこもる文化」が確立されてしまうと、たとえご家族は失敗するフリーハンドを許容しようという鷹揚なお心構えで『「諦めない限り、必ず希望はあるんだ。」と励まし』続けたとしても、ご本人の頑迷強固な観念を溶かすことは不可能に近い。ネットの渉猟で拝見した範囲ですが、二次障害後の社会適応が叶ったケースは概して、メンターとの出逢いに恵まれた方々に限られているのです。

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大野さんのような、ご家族の鷹揚さが却って仇を為し30年近くひきこもってしまった例はさすがに稀少ですが、『とても頭が固いというか融通がきかない』タイプの自閉圏当事者さんは一定散見され、以下のプロファイルが共通していると私は拝察しています。

  1. 一人で群れずに熱中できる好きなことは、机上で自学自習する勉強
  2. 感覚過敏は比較的軽微で、中等教育までの適応には概ね支障が無い
  3. その一方で未決問題へフリーハンドが行使できず緘黙してしまう

3番目は、正解が定められていない状況に対してどう応じたら良いのか分からず、フリーズしてしまう状態。たとえば「あなたは、何がしたい?」といった自由度が高い質問だと、専門課程進級時のゼミ/卒業研究のテーマ/就職活動の業種を選択すべき年齢に到って尚、黙り込んでしまう。緘黙は謂わば「脳内ひきこもり」の徴証なのでしょう。

他に感想文や報告書が苦手/口頭発表を要求される行事を避ける/服装の色彩に強いこだわりがある、といった共通項が見受けられるようです。彼/彼女らは「苦手は忌避し続けるしか/得意で矜持を保つしか、術は無い」という諦観と自負に囚われ、医師・弁護士といった国家資格や検定試験 −−− 正解が定義されている勉強 −−− の権威に縋る一方、正解が定まっていない状況への不安ゆえに実体験へ踏み出すことが極めて難しい。

しかし緘黙という「脳内ひきこもり」から脱するために必要なのは机上の勉強ではなく、さらに言えば就労移行支援事業で設定される予定調和な職業体験でもありません。

実生活の中で生ずる様々な場面で「失敗体験」を積み重ねて当事者が自身の不備不足へ向き合いつつ、フリーハンドの行使に必須な大人のリテラシーを伝授して下さるメンターとの関係性を構築するほかに、術は無いのです。上述の「脳内ひきこもり」を呈する当事者さんたちは、親御さんがたいへん寛容でご家庭には「ひきこもらせない文化」が醸成されていた様子も共通項なのですが、過ぎるほどに優しい生育環境が苦手の忌避を助長/障碍の自覚を遅延し、失敗の蓄積と昇華が阻まれたとも拝読されます。

一人で群れずに机上の自学自習に熱中でき、学校生活への適応に一見した限りでは支障が無いとなれば、中高一貫校を目指して小学生から受験勉強へ邁進させるのが「普通」の枠へ嵌め込まれた「みんな」からすれば優等生たる常道。ですが「脳内ひきこもり」の危惧を潜在させている「緘黙する子」にとっては誠に遺憾ながら、十代前半までに多様な実体験で知恵を育む機会を逸して障碍を増悪させたと結論せざるを得ないのです。

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「優しいお母さん」が「緘黙する子」の不安を思い遣り「かわいそう」と慈愛をお感じになるのは、天然自然の摂理でしょう。されどお子さんが自己へ向き合うべく築こうとしている家族以外の「大人」との関係性を、「かわいそう」と阻む庇護は「脳内ひきこもり」を20年30年へ引き延ばすだけと大野さんは身を以てご教示下さっているのです。

【補記】「お母さん」と「子」連作として不定期連載しております。

>>第1回『「良いお母さん」と「悪い子」』を読む
>>第2回『「変な子」と「変なお母さん」』を読む
>>第3回『暴れる子 と『頑張るお母さん』』を読む

2017年9月13日水曜日

メンター(仮) になろう!

当事者が 子どもでも成人でも 個性が 早熟でも晩熟でも
直面する支障が 集団教育への不適応でも ひきこもりでも

発達障碍の二次障害を回避/回復し自立を支える第一歩は、当事者が一人で群れずに熱中できる「好きなこと」 を共に愉しみながら、彼らに潜在している創造力を暗示する藁のように些末な事象を、糾って縄へ拵えるような工夫が叶うメンターをさがすこと

そして、最終学歴が中等教育でも高等教育でも、特性に付与された名が多様性発達でも発達障害でも、当事者の自立を叶えるのはメンターを介して習得する大人のリテラシーだとすれば家庭の埒外にメンターを探し当てるまで暫定的にご家族のどなたかが −−− 多くの場合は親御さんが −−− 「メンター(仮)」を務めるに勝る策は無いでしょう。

要するに、お子さんの育ちを主導なさるご家族兼任の暫定メンターが、生来の五感や認知の凸凹という「苦手を避け」構造的・弁証的に「配慮と我慢」の必要を体験させることで、社会と呼応する知恵 −−− 他者と繋がる知恵=対人性能や他者へ資する知恵=代行性能 −−− の自得を促すことさえできれば移行的措置としては最善の対策なのです。

最終学歴の課程途中で退学したり就職活動が不首尾に終始したり、学校という所属を失った場合は当面の「通うべき場所」として就労移行支援事業へ赴くのが「普通」とされている昨今ですが、学生としてのモラトリアムを経ても一人で群れずに熱中できる「好きなこと」の昇華、すなわち自発的な探求で切磋された「得意」を発現させられなかった「特別」なケースが、相談面接や集団支援が主体の「普通」なサポートだけで個性を開花できると期待なさるのは僭越の弁にて恐縮ながら浅慮としか申し上げられません。

専門家の支援を受けさせてるんだからとか、疾うに成人してるんだからと放任せず、叶う限り親御さんには自ら「メンター(仮)」となる「特別」な策を検討願いたいのです。

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では、お子さんの「メンター(仮)」って一体どうすればなれるのでしょう?
前回の「Who're their Mentors?(誰が彼らのメンターなのか?)と題した記事では、
メンターは「好きなこと」 の先達として、尊敬できる「大人」なのです。
と結語しました。つまり条件としては、
1. お子さんが「好きなこと」へ導ける
2. 尊敬できる「大人」
という2つを満たせれば良いわけです。

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まず一点目。再々綴っておりますが、お子さんが「好きなこと」とは一人で群れずに熱中できること・興味関心の趣くまま自発的に探求していることです。仮に学校へ通えている間は暇さえあれば自学自習していたとしても、所属を失った途端にゲームやネットで明け暮れているのだとすれば、残念ながら勉強が「好きなこと」だったのではなく単にお子さんが認知しやすい報酬 −−− 相対的な高得点・好成績は承認欲求を満たすのに恰好の代償です −−− で釣られ、与えられた課題を受動的に消化していたに過ぎません。

最終学歴の課程途中で就学意欲を突如失ったり就活を始めるや自身の志望を俄然言語化できなかったり、自立への方途が阻まれてしまうのは、「普通」の育ちを辿った「みんな」との比較に基づく相対的な学業成績のみだと生来抱える五感や認知の凸凹に支障され、自己承認が安定的に成立し得ないためでしょう。親御さんから御覧になれば、高校や大学へ合格できた/卒業単位を満了できた経緯は立派な「成功体験」とお感じになるでしょうが、当事者さんの自己肯定感を育むには「特別」な「成長体験」こそが必須。

たとえ職業には直結しがたい趣味の範疇に留まる力量だったとしても、お子さんならではの「好きなこと」で同好の仲間に一目置かれる「成長体験」は、他者と繋がる知恵=対人性能や他者へ資する知恵=代行性能を萌芽させる土壌となってくれます。受験勉強で消耗しゲームやネットへ逃避する以前の純粋に自発的な「好きなこと」へ、当事者さんが回帰できる環境を「ひきこもらせない文化」に次ぐ支援としてご高配戴ければ、彼らの「好きなこと」へ共に熱中できずとも「得意を伸ばす」端緒は作り出せるのです。

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そして二点目の尊敬できる「大人」。すなわち親としてのお立場は一旦離れて、当事者の人格を損なうこと無く尊く在らしめるには、人生の先輩としてなにを・いつ・どう伝授すべきかを細やかにお考え下さる思い遣り深い他人 −−− 難しいとは存じますが、例えばお母様でしたら「賄い付きの下宿の小母ちゃん」的な役回りでしょうか −−− を演じて戴きたい。それが叶えば自然と、お子さんに必要なのは凸凹を「個性」として受容/承認することと自律的な生活習慣を稽古/体得させることだとご納得戴けると思います。

集団教育への不適応でも ひきこもりでも、最終学歴での中退でも 就職活動の不首尾でも、お子さんが二次障害を発してしまったご家庭で「うまくいっちゃう文化」を醸成し直す唯一の方法は、「相手も/自分も責めない」こと。そして、生じた問題を家族全体で支えていくため、「相手も/自分も成長させる」こと。親御さんがたには僭越の弁にて恐縮ながら、親である前に「大人」であって戴ければこの上なしと私は願っております。つまりは『大人が、子どもに尊敬されなくて どうするのかということです。

2017年8月26日土曜日

Who're their Mentors?

当事者が 子どもでも成人でも 個性が 早熟でも晩熟でも
直面する支障が 集団教育への不適応でも ひきこもりでも

二次障害を回避/回復し自立を支える第一歩は、当事者が一人で群れずに熱中できる「好きなこと」 を共に愉しみながら、彼らに潜在している創造力を暗示する藁のように些末な事象も見過ごさず、糾って縄へ拵えるような工夫が叶うメンターをさがすこと

そして、最終学歴が中等教育でも高等教育でも、特性に付与された名が多様性発達でも発達障害でも、自立を叶えるのはメンターを介して習得する大人のリテラシーであるがゆえ、親御さんが我が子の自立を支えたいと願いつつも、彼らの「好きなこと」へ共に熱中できないなら、暫定的な「メンター(仮)」を務めるのが精々。お子さんの未来を見据え「得意を伸ばす」には、家庭の埒外でメンターをさがすほか術はありません。

つまるところ、娘の五感や認知の凸凹という「苦手を避け」ヘッポコ母ちゃんの兼任するメンター(仮) が構造的・弁証的に「配慮と我慢」の必要を体験させることで、社会と呼応する知恵の自得を促してきた拙宅流の就労支援の「予習」は、娘なりに「藁」のような些末な事象も撚り集め懸命に糾った「縄」すなわち大学で培った人脈を手繰って、家庭の埒外に正真正銘のメンターを探し当てるまでの移行的措置だった、という次第。

今後は、他者と繋がる知恵=対人性能や他者へ資する知恵=代行性能の不備を自家メンター(仮) が補塡しつつも、大局的には娘自身がメンターと心に定めた師匠から、知識と知能=専門性能の切磋に併せ大人のリテラシーを伝授戴いていくことになります。

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では、お子さんが師事すべきメンターって一体どうやってさがしたらよいのでしょう?

史上最年少で将棋のプロデビュウを果たした藤井聡太 四段のように、職能へ直結しうる大人顔負けの「得意」が明瞭なら師匠の探し方に迷う余地もありませんが、五感や認知の凸凹を抱えるお子さんの大部分はむしろ晩熟型「職業人として何を為すか そのために何を学ぶべきか」という認知を確立していく高等教育の途上で、中等教育までの得意教科に惑わされることなく一人で群れずに熱中できる「好きなこと」−−− 学力や職能へ繋がる「得意」に合致するとは限りません −−− へ接点を求めるべきなのでしょう。

と言うのも、「普通」の枠に寄り掛からない「特別」な育ちを要するお子さんが中等教育まで相対的な好成績を上げていた教科 −−− 算数・数学、理科や社会が定番のようです −−− は、事実情報の集積に優れた脳の機能様式と相性が良かっただけで、潜在している創造力の反映とは必ずしも言えないのです。真正の「得意」なら学業のみに留まらず、一人で群れずに熱中できる「好きなこと」へ昇華されている −−− たとえ高得点・好成績という報酬が無くても、興味関心の趣くまま自発的に探求している −−− 筈だからです。

ところが、受験科目という観点で相対的な学力ばかりに気を取られ、例えば数学や理科の成績が良いから理系へ行けば良いとの短絡で進路を定めてしまった場合、高校までと打って変わって実習が一挙に増え語学や人文社会科目の必修も一定課せられるカリキュラムへ順応しきれず、不登校や履修不全に陥ったケースが往々にして生じている模様。

となれば、正真正銘の「得意」が未だ明瞭でない当事者の高等教育段階での進路の選び方 −−− メンターをさがす人脈の始点として、非常に大切 −−− は、叶う限り学際的であるべきだと私は考えています。最高学府に相応しい知識と知能=専門性能の萌芽がお子さんにあるなら親御さんには大いに奨学なさって戴きたいのですが、専門の選択は叶う限りの先送りをお奨めしたいのです。昔風なら教養学部文理学部、昨今の改組ですと総合科学部人間科学部と呼称するようになった学際的な課程を是非ご検討願いたい。

お母様がたの実感からすれば、極端に幼い所があって覚束ないからこそ得意教科を活かして早く専門性や技術を……と先走るお気持ちは拝察しますが、自発的な探求まで昇華されていない学力や職能は一旦つまずいてしまうとゲームやネットへ −−− もっと安直に高得点・好成績という報酬を得られる体験へ −−− 置き換わるだけ、と重々ご承知おき願います。ご事情が許す最大限で、学生としてのモラトリアムを推奨したい所以です。

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大学では、学業だけでなくサークル活動もメンターに繋がる人脈を糾っていくため大切な拠点むしろ他者と繋がる知恵=対人性能や他者へ資する知恵=代行性能の発露を促す上では、共に熱中できる「好きなこと」を介した安定的な関係性の方が学業より有効ですし、単位や成績の縛りが無い環境こそ、小さな「失敗体験」を積んで生来の凸凹に対する「配慮と我慢」の自得の要を当事者が理解していくために打ってつけなのです。

ただし入会に際しては、お子さんの「好きなこと」を第一に選ぶのは無論ですが運営幹事や年間行事などの体制がきちんと定まった、いわゆる公認サークルをお奨めします。対人性能代行性能を養う「失敗体験」を積むための親御さんによるサポートがしやすいことに加え、伝統のあるサークルは卒業した先輩がたが活動に関わって下さる機会も期待できるので、メンター探しの布石を置くという意味でも大きな利点となります。

仮に学業の方で何某かの不適応が生じ留年休学という事態へ到っても、熱中できる「好きなこと」でメンバーと一緒にサークル活動へ打ち込めているなら、他者と繋がる知恵や他者へ資する知恵が確実に発露し自己理解の基礎となる所属意識が育まれ始めた証左です。どうか親御さんがたには、単位が取れていないなら退学して働きなさい!などと短慮へ走らず、家庭の埒外でメンターに巡り逢うことの重要をこそ優先願いたい。

最終学歴が中等教育でも高等教育でも、その学校生活は多様性発達者が社会で必要とされる力を教育インフラを活用して発現させるラストチャンス。単位を満了し高卒・大卒という肩書きを手に入れるだけでは、社会と呼応する知恵の自得は決して促せません。

親御さんが我が子の自立を支えたいと望みつつも、その価値観がお子さんの「好きなこと」と一切交わろうとしないご家庭では、辛うじて「ひきこもらせない文化」の醸成は叶ったとしても「うまくいっちゃう文化」への熟成は極めて難しいでしょう。でも子育てを主導なさってきたお母様がたが、迷妄する彼らの「好きなこと」を尊重し家庭の埒外にメンターを求めようと覚悟を据えれば、希望へ向かう好転の道筋が見えてきます。

当事者にとって自立を叶える第一歩は、「好きなこと」 を共に愉しみつつ彼らに潜在している創造力を糾ってくれるメンターへ、自らの向上を目指して入門を決断する意志
そして彼らのメンターは「好きなこと」 の先達として、尊敬できる「大人」なのです。

2017年8月18日金曜日

メンターをさがせ!

『最も難関かつ大切なのは、就職活動と社会人になった最初の数年間』

大学1年生だった娘へ宛てとある成人当事者ブロガー様」から『ストレートな表現になりますが』と丁寧な前置きを添えて頂戴した上記のご忠言を機に、この2年間「大人の発達障害」に対する自立支援の最も重い要諦はなんなのか?という課題を、当事者・ご家族・支援者の日常へネットを介して接する機会に恵まれながら模索してきました。

そのお蔭様を以て娘は自家製支援のみで、後は大学の関係各位にご指導ご鞭撻を宜しく頂戴するばかりという所へ漕ぎ着けています。無論、不備不足は依然として多々ありますし親としての気持ちが彼女から離れることはありませんが、今後は娘自身の他者と繋がる知恵で社会と呼応しつつ自己の人生を主導して行くだろうと信頼叶うようになりました。その拠所は、彼女自ら「藁」のように些末な事象も丹念に撚り集め糾った「縄」−−− 大学で培った人脈 −−− を伝手に家庭の埒外でメンターを得られたという事実です。

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五感と認知の凸凹という「苦手を避け」構造的・弁証的に「配慮と我慢」の必要を体験することで社会と呼応する知恵の自得を促す就労支援の「予習」と、多様性発達者ならではの「得意を伸ばす」ことで『自己の向上を意志する』人格を育み知識知能の切磋を励ます修学支援の「補習」を、バランス良く支える上で最も望ましい当事者との関係性も発達障碍の二次障害を回避/二次障害の回復を促す場合と同じくメンターです。

つまり、お子さんの最終学歴が中等教育であれ高等教育であれ、その特性に付与された名が多様性発達であれ発達障碍であれ、二次障害を回避/回復して自立への成長を叶えるのは、メンターを介して習得する大人のリテラシーなのだと私は考えています。

凸凹を抱えたお子さんの育ちを主導するのが「普通」の枠に嵌め込まれたまま「みんな」へ倣うだけで大過なく齢を重ね所属を得て来た「良いお母さん」だったとしても、メンターへ師事させてこそ「特別」な子の将来は拓かれるという目処さえ立っていれば、弟子入りに備え家庭で注力すべきは凸凹を「個性」として受容/承認することと自律的な生活習慣を稽古/体得しておくことで、「みんな」が辿る「普通」の枠へお子さんを無理矢理嵌め込もうとするのは勘違いとご了解戴けるのではないかと思うのです。

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では、この子はメンターへ師事させてこそ自立が叶うという目処は、どう判断すべきでしょうか? 史上最年少で将棋のプロデビュウを果たした藤井聡太 四段のように、早熟の天才が明瞭であれば師匠への入門の要は疑う余地もありませんが、五感や認知の凸凹を抱えるお子さんの大多数はむしろ晩熟型ではないかと私は考えています。

すなわち同年齢の子ども達に比較して何某かの発達の遅延があり −−− お母様がたの実感からすれば、極端に幼い所があると表現する方が適切かも知れません −−− もしくは才能と言うより何某かの興味関心の偏向が顕著で、 同年の他者と上手く繋がることが叶わず集団教育への精神的参加に難渋しているという徴候が目安となりそうです。

留意すべきは、たとえ齢が離れた遊び友達は一定いても/個人的な学業成績は優れていても、同学年の他者と連携して課題へ取り組む際の齟齬を見逃さないこと。同年齢の集団教育は謂わば日本社会の雛型なので、そこでの支障は大学生活・就職活動・社会人デビュウなど「みんな」なら「普通」の努力を積むことで乗り切れる人生の岐路に於いて不適応を生じ二次障害を発する危惧を事前に察知する上で有効と考えられるからです。

同年の子どもたちと関わることが苦手で集団教育への参加に支障があると、「普通」の「良いお母さん」定型発達症候群に陥って我が子を仲間はずれにされるまいと躍起になりがちかと拝察しますが、むしろ一人で群れずに都度の最善を選択し行動化していける「特別」な育ちを期待された子なのだと捉えて戴きたい。親御さんが「みんな」が辿る「普通」の枠には寄り掛からず「特別」な育ちを糾おうと覚悟すれば、ご家庭で天然自然に醸成されていく「うまくいっちゃう文化」へ、お子さんも応えてくれる筈。

そして「普通」の枠に寄り掛からない「特別」な育ちには、お子さんが一人で群れずに熱中できる「好きなこと」 −−− 学力や職能へ繋がる「得意」に合致するとは限りません −−− の工夫を愉しみ極める創造力を共有しつつ、都度の最善を選択し行動化していける大人のリテラシーの習得へ結びつけて下さるメンターとの関係性が必須なのです。

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さて、私としては娘の成人を目前に控え「大人の発達障害」への自家製支援を個人的に模索していたわけですが、全く独立に全く同一の結論へ −−− 発達障碍の二次障害を回避/回復させる上で、当事者が必要としている関係性はメンターであるという実践へ −−− 到達した方々とネットを渉猟する途上で巡り逢うことができました。

お一方は勿論、拙ブログでも連鎖の機会を再々頂戴しておりますサポートセンター名古屋青木 美久 先生です。当事者のお一人であるヒロさんの文章を通じ、ひきこもりからの家庭内暴力という深刻かつ困難な二次障害の回復に於いて、お子さんが親御さんの元を離れメンターへ師事することの重要を繰り返し説いておられます。

更にもうお一方は、娘の同学の先輩である中里 祐次さん。小学1年生で発達障碍と診断された息子さんの育ちを模索する過程で、拙文でも言及させて戴いたnanaioさんの『現役東大生が50円で売っていたので8歳児と数学を語ってもらった話』に接し、発達障がい児とメンターを繋ぐWEBサービス事業化を構想後、一気呵成に実現なさいました。

つまり、当事者が子どもでも成人でも 個性が早熟でも晩熟でも 直面する支障が集団教育への不適応でもひきこもりでも、発達障碍の二次障害を回避/回復し自立を支える第一歩は、当事者自身が一人で群れずに熱中できる「好きなこと」 を共に愉しみながら、彼らに潜在している創造力を暗示する藁のように些末な事象も見過ごさず、糾って縄へ拵えるような工夫が得意なメンターをさがすこと。お子さんの「好きなこと」へ親御さんが共に熱中できないなら、ご家庭の埒外でメンターをさがすほか術はありません。

親御さんの価値観がお子さんの「好きなこと」と一切交わろうとしないご家庭では、辛うじて「ひきこもらせない文化」の醸成は叶ったとしても「うまくいっちゃう文化」への熟成に到るのはおそらく難しい。お母様の相談先が、有名カウンセラーの講演会だろうが 大学の学生相談室の担当教官だろうが 就労移行支援事業所の説明会だろうが、当事者と合致するメンターに巡り逢うのはまず不可能だからです。お子さんの自立を親御さんが離心無く真摯に支えたいと願っておられるなら、メンターをさがして下さい。

2017年8月8日火曜日

暴れる子 と『頑張るお母さん』

「変なお母さん」好奇心主導な傍目八目から拝見すると、大抵の「良いお母さん」は子育てという行為を「みんな」が経ている「普通」に倣えば上手く行く筈、と根拠無く思い込んでおられるようにお見受けします。お子さんが「普通」の枠から明瞭な逸脱を呈していても、その因果へ「疑問を持って 詳しく調べる」工夫を凝らし「特別」な育み方を模索しようとはなさらず、「普通」の枠内へ嵌め込み「みんな」に足並みを揃えさせようと腐心し、ご家庭の埒内へ囲い込んでなんとかしなければと躍起になるばかり。

「普通」の枠に嵌め込まれたままの地平をわざわざ離陸せずとも「みんな」へ倣うだけで大過なく平穏に齢を重ね所属を得て来た「良いお母さん」達へ、私は不遜な批判を加えようとしているわけではありません。できる限り効率良く仕事や家事を片付けて確保した時間に、できる限り効果が高そうなノウハウの勉強へ努めるのが、「良いお母さん」にとって精一杯の頑張りなのだと平らかに了承した上、果たして「特別」であるがゆえのお子さんの問題をノウハウで解決できるのか疑わしい、と懸念しているのです。

他所様の親御さんをあげつらうのは、拙ブログの本来の意図ではありませんが……
『なんでこうなるの?親と子どもと』と題し疑義を呈して下さった、サポートセンター名古屋ヒロさんからの「宿題」へお応えしよう、というのが今回の趣旨です。

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ヒロさん曰く、発達障碍の二次障害からひきこもりに陥ったお子さんが、ご家族への暴力・暴言を表出している −−− 直接の対象になりがちなのは、お母様だそうです −−− 場合、ご家庭が取っている対応として『圧倒的に多い』ケースは『なんとかしなければと思いながら、なんともならずに、暴力に耐えながら過ごしている』中で『「自分のお腹を痛めた子どもだから、自分の責任でなんとかしなければ」と頑張るお母さん達』。

特にヒロさんが
『なんだかな。 切ないね。 お母さん達は一生懸命なのに。』
と深く心を痛めておられたのは、暴れる子ども達が『求めているものは それじゃない』のに『ものすごく ズレている』お母様がたの『勘違い』です。例えばカウンセリングの勉強会や有名カウンセラーの講演会へ熱心に足繁く通っておられながら、
『で? お母さん、あなたの お子さんは? 何も変わっていない!?』
という状況が −−− 実際に勉強会や講演会へ参加してみたお母様のブログから察すると、少なからず −−− 生じている模様なのです。

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拙記事の趣旨は、何も改善しない理由は縋った「藁」がカウンセリングだったという『勘違い』なんです!ひきこもりの解決には断然これが効果的!といったノウハウ −−− やり方に関する知識 −−− ではありません。お母様がたの相談先が、有名精神科医の講演会だろうが 就労移行支援事業所の説明会だろうが 大学の学生相談室の担当教官だろうが、偶然掴んだ「藁」へ縋り付く一方でそれを撚り集め縄へ糾う知恵が働いていなければ、ご家庭の「ひきこもらせる文化」は遺憾ながら何も変わりようがないというお話。

ですので、ひきこもりからの家庭内暴力という発達障碍の深刻な二次障害を解決する方策は真っ先にご家庭の文化=親子の関係性を改善するため、親御さんの −−− 特に暴力・暴言の対象になりがちな、お母様の −−− 他者と繋がる知恵=対人性能をお子さんに対して精一杯働かせて戴かねばならない、というのが結論。更に詳しい解題は、恐縮ですが拙記事『ひきこもらせない文化』『「藁」を糾える文化』をご精読下されば幸甚です。

という次第で、ヒロさんから頂戴した『なんでこうなるの?親と子どもと』という宿題へは、親御さん −−− 特に子育ての主導権を握っておられる、お母様 −−− の他者と繋がる知恵=対人性能をお子さんに対して精一杯働かせていらっしゃらなかったから『ものすごく ズレている』『勘違い』が生じてしまったのだ、とお答えすることになります。

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という回答だけで終わらせてしまうと、師兄たるヒロさん対人性能を精一杯働かせていないという非常に無礼な仕儀になってしまいますので、以下で説明を試みますね。
サポートスタッフの皆様にはご多忙を極めておられるところ大変申し訳ありませんが、ヒロさんへ読解のご助力を、私からもどうぞ宜しくご対応のほどお願いいたします。

第一に『ものすごく ズレている』『頑張るお母さん』には、お子さんを「他者」と捉えることができていない徴候があります。

ヒロさんの文章で「自分のお腹を痛めた子どもだから、自分の責任でなんとかしなければ」「いざとなったら この子と一緒に……」と綴っておられる部分が、その証左。ひきこもっているのも暴力・暴言を表出しているのも、その主体はお子さんです。従って、お子さん自身が『なんとかしなければ』と考えられるよう、支え扶けて行くのが再起へ繋がる道理なのですが、『ものすごく ズレている』お母さんは自分の子どもが起こした自分の問題だから自分の頑張りで『なんとかしなければ』と『勘違い』なさっている。

それから、第二に『ものすごく ズレている』『頑張るお母さん』の対人性能は「普通」の枠に嵌め込まれたままの「みんな」に対してしか働かない徴候があります。

ヒロさんのブログですと『有名なカウンセラーに寄り添いながら、全国の講演会を制覇した』お母様が典型例。「普通」の「みんな」へ対してなら対人性能を存分に働かせることがお出来になるので『「カウンセラーを名乗っていい とお墨付きをもらいました」と誇らしげに』自慢なさるほど成果を上げられるのですが、「普通」の枠から外れた相手には「間違っている。カウンセリングで正さなければ」という価値観なのでしょう。

さらに、第一の徴候(自分と相手に対する自我他我の認知に不備があること)と第二の徴候(自分の価値観に沿わない事象は受容しないという認知の不足があること)は、自己理解すなわち自己を掌握し自己実現の主体となるべき人格の成立に不備不足があることを示唆している、と私は解釈しています。語弊を懼れず一言でまとめちゃえば、たぶん定型発達症候群なんでしょう。

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拙ブログで度々繰り返している解題ですが、発達障碍の二次障害を防ぐ/二次障害からの再起を促す上で最も望ましい当事者との関係性は、上から目線で「みんな」の「普通」つまり定型発達の標準を知識として教え諭すカウンセラーではなく、自己を掌握する能力=人格の育ちを扶け他者と繋がり社会と呼応する知恵を伝授するメンターです。

そしてメンターとしてお子さんとの関係を構築することは、「普通」の枠に嵌め込まれ「みんな」が立つ地平を離れられない「良いお母さん」ですと、遺憾ながら不可能に近いと申し上げて良いでしょう。ネットを渉猟して拝読拝聴した限りではありますが、お子さんが発達障碍を抱えつつも二次障害の回避/再起へ向かうケースは必ず、主導なさっている親御さんがどこかしら「変なお母さん」の素質を備えてらっしゃるからです。

ゆえに『なんとかしなければと思いながら、なんともならずに、暴力に耐えながら過ごしている』お母様がたには、お子さんをご家庭の埒内へ囲い込むのは一日も早く止めて親子が物理的にも心理的にも距離を置く方便の算段にこそ頑張って戴ける知恵に、一日でも早く気づいて下さったら……と非力ながらも深く共感しつつ懸念するばかりです。

【補記】「お母さん」と「子」連作として不定期連載しております。お時間許す範囲で併せてご笑覧賜れますと幸甚。
>>前篇『「良いお母さん」と「悪い子」』を読む
>>前篇『「変な子」と「変なお母さん」』を読む
>>続篇『緘黙する子と優しいお母さん』を読む

2017年8月5日土曜日

多様性発達者の修学支援

通うべき所へ通い続けられる「配慮と我慢」の自発を最優先に据え、娘が大学生活に馴れてきた頃合いを見計らいつつ2回生で早々に始動した就労支援の「予習」は、3回生の春学期を終えた現時点で『何をしたいのか そのために何をすべきか』という認知を彼女自身が把握できる俯瞰を確立し、後は大学のキャリアセンターやサークルの大先輩がたのご指導ご鞭撻を宜しく頂戴するばかり……という所へギリギリで漕ぎ着けました。

これでようやく、修学支援へ主力をシフトできます。

あれっ?! 修学支援で卒業単位を満了できる見込みが立ってから、就労支援へ移行するんじゃないの?と思った親御さんには僭越な物言い誠に恐縮ながら、それこそ「就活がうまく進まない」盲点。「みんな」なら卒業の目処が立った頃合いで始める就労支援を、むしろ先行させ「予習」しておかねば充分に特化した修学支援とはなり得ないのが「普通」の枠を大きく逸脱したPolymorphous Developments=多様性発達者なのです。

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その理由は、大学すなわち高等教育に於ける修学とは何を以て完了と判断するのか、改めて「疑問を持って 詳しく調べる」ことで自明となります。たとえば、毎度リンクでお世話になっているウィキペディアの『概要』から引用させて戴くと、
『高等教育は、中等教育を修了した者またはそれと同等以上とみなされた者が知識・倫理・技術などを深く学び、さらにそれらの理論や実践を身に付ける。そのことを通じて、課程を修了した後に、職業人(研究者を含む)となるなどして広く社会に、教育の成果を還元する。』
とあります。つまり厳密には、授かった教育の成果を社会へ還元すべく「職業人として何を為すか そのために何を学ぶべきか」という認知を学生自身が把握できる俯瞰に専門課程の段階で到達していなければ、高等教育を万全に修めたとは言い難い。これは、前々回の拙記事で言及した某有名私立大の学生相談室でのご対応を、僭越の誹りを敢えて懼れずお節介にも『大いに憂慮すべき現状』と論評させて戴いた根拠でもあります。

すなわち合理的配慮を提供すべき立場に在りながら「みんな」が辿る「普通」の枠に合わせて卒業単位さえ揃えられたら修学支援は完了と判断し、キャリアセンターの就職支援で成果が出せないならとっとと卒業して学外の就労移行支援事業所へどうぞと勧告する対応は、最高学府が担保すべき高等教育の本懐を踏みにじる行為にほかなりません。

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さりながら法制化以後も私立学校では合理的配慮が努力義務と規定された以上、大学側から十全のサポートを引き出すには、相談室へ縋る一方ではなくwin-winの関係へ持ち込める交渉材料が必須。そのためにも単に「みんな」の「普通」に追い着かせようという観点ではなく、多様性発達者ならではの「特別」を磨いておく備えが大切でしょう。

すなわち「みんな」なら卒業の目処が立ち始める3回生の秋学期頃おもむろに、就職したら『何をしたいのか』という認知を意識するのが「普通」でしょうが、1年以上前倒しで2回生への進級早々に就労支援の「予習」を始動しておけば、五感や認知の凸凹を抱える多様性発達者にとって習得が苦手な社会と呼応する知恵の育ちを構造的・弁証的に促しつつ、元来得意な知識・知能の切磋をより重層的・多元的に発展できるのです。

とは言えこの戦略は、ムダに鋭敏な五感で身体の内外から感受し続けるムダに精細な情報ゆえに、脳が飽和しがちな当事者の許容量に対し相当な「配慮と我慢」を要します。例えば「みんな」なら大学生活に余裕が出て来る2回生から3回生は、講義の合間に定期のアルバイトを入れて就労への「予習」とするのが「普通」なのでしょうが、日常の体験から他者と繋がる知恵を自得するのが苦手な多様性発達者からすれば却って鬼門。

一見すると大過なくバイトをこなしている様子でも、与えられた課題なら知識(=既得の事実情報)知能(=鍛錬した思考過程)を駆使して定められた正解へ到達できる生来の得意で、指示されるがままに限定的な他者へ資する知恵=代行性能を発揮しているだけ。就労に要する『様々な業界や職種に転用可能なスキル』、すなわち『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』といった発展的な他者と繋がる知恵=対人性能の誘導にまで到るのは、バイトを介した不安定な人脈では難しいでしょう。

という次第で学期中の定期バイトも休暇中の短期バイトも −−− 通学の交通費・食費やサークルの会費・諸経費など授業料以外に要する日常の支出が結構な額に上る旨、スマホの表計算アプリで記録させ勤労の行動化への自覚を促しつつ −−− 親の督促は「配慮と我慢」。一度だけですが、サークルで使う私物に高価な品を奮発したいとの動機で自発的に学内公募の短期バイトへ参加しましたから、ゆっくり奏功していると考えています。

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「みんな」が当たり前に経ている「普通」の一部を棚上げして確保した時間と脳の容量は、娘ならではの「特別」すなわち元来得意とする知識と知能=専門性能の切磋を、他者と繋がり社会と呼応する知恵=対人性能の伸長へ連動させることに、絶賛注力中。具体的に言えば、第一志望の教授からご指導戴ける運びとなった専門ゼミと、幼い頃から慣れ親しんだ場の「中の人」になれる国家資格を取得するため必須な実習講座ですね。

これもまた大学生なら当たり前に経ている「普通」の体験ですが、多様性発達者ならではの「特別」を磨く好機として最大限に活かそうと目論むのが、拙宅特製の修学支援。

まずはオカンの入院を機にガッツリ根付い「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣応用し、毎回の履修内容を娘が自発的に言語化→親子で論考を交えて重層化→多元化させる自学自習の課題を協議することで、単位取得に留まらない「特別」を目指してます。4回生への進級時には専門ゼミ/実習講座の各指導教授へ卒業研究/就職活動のメンターをお願いすべく、win-winの関係へ繋がる交渉材料に昇華させていく戦術です。

と言うのも、3回生ともなれば講義内容の専門性が高くなり、殊に娘が得意の語学や社会学の領域では、私が教えてもらう一方。一般教養課程での「予習」ではGPAの高得点を交渉材料に基礎ゼミ担任教授へ暫定メンターをお願いしたのと同じ要領で、本格的に家庭の埒外でメンターとの長きに渉る人脈を築く段階が、いよいよ迫っているのです。

たいへん有り難いことに、娘は生来得意な知識と知能=専門性能の切磋を積むため、本邦有数の規模を誇る大学図書館書籍文献を我が庭の如く渉猟する日々を、心の趣くまま絶賛堪能中。曰く「こんなに勉強が楽しいのは生まれて初めて」と晩熟を謳歌している彼女へは、小学5年で担任して下さったS先生が「大学へ入ってからの方が、上手くいくタイプ」と断言しメンターを務めて戴けた僥倖の予言通りなのだと話しています。

つまり娘の多様性発達者ならではの「特別」は、「みんな」が辿る「普通」を外れているからこそ育った『自己の向上 −−− より自分らしく より愛情深く より公平に よりおおらかに より世の中に役にたつように より人間らしく −−− を意志する』人格なのです。

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他所様のお子さんをあげつらうのは本意ではありませんが、娘曰く「普通」の育ちを辿った「みんな」は概ね −−− 学友の多くは首都圏にある中高一貫校の出身ですが −−− 大学での勉強を楽しいと感じていない、とのこと。大抵は叶う限りの楽をして単位を揃える方策に腐心し、就職までの数年間を効率良く遊ぶことへ注力している。察するに小学生から受験勉強へ邁進させられ疲弊してしまったのだろう、というのが彼女の見立て。

娘は学友たちを批判しているわけではありません。できるだけ楽単(楽に取れる単位、という意味ですね)を集めて確保した時間に、できるだけバイトを入れて遊ぶための小遣いを稼ぐのが、「みんな」にとって「普通」の大学生活と平らかに承知し大らかに受容した上、10年間も懸命に勉強し続けた成果がそれじゃ気の毒、と共感を抱きつつ俯瞰している。

無論、相対的には少数ながら個性的な「特別」を早熟させた上に大学での勉強も大いに満喫し、かつ更なる向上を志して意識の高い有意義な数年間を積んでいく学友 −−− 有り難いことに娘が所属しているゼミやサークルには、このタイプの地方トップ高出身のお子さんが幾人もおられます −−− の優秀さも、率直な敬愛を抱きながら俯瞰しています。

それと同時に、自分は発達障碍の告知を下され自家製療育を受けたからこそ「普通」の枠に嵌め込まれたままの「みんな」が立つ地平を離陸し、自己の向上を意識的に志せる自分ならではの「特別」な俯瞰への飛躍が叶ったのだと −−− 多様性発達者として生を受けたのは、むしろ幸運だったのだと −−− 一点の曇りも無く納得できる認知を得た模様。

S先生から頂戴した10年を見通す予言には比ぶべくもありませんけれど、1回生の秋学期を終えようという頃、大学合格が『大きく娘の将来を左右する成功体験』なのは『娘自身が、自分の障碍に納得していないから』と、一見逆説的な論旨を張った「変なお母さん」の屁理屈上等な傍目八目が、布石の回収を果たせたと言うところでしょうかw

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そして私自身の「変なお母さん」ならではの「特別」は、子育てという行為を単に「みんな」が辿る「普通」の家族の営みとして限定することなく、好奇心主導理系女子として授かった専門教育を実践し社会へ還元するためのケーススタディ −−− 五感や認知の凸凹を生来抱える子どもの成育過程を社会的・文化的背景と関連させながら詳細に論考し,そこから一般法則を見いだしていく俯瞰 −−− へ昇華させようと試みる意志です。

一人娘の発達に顕著な遅れがあると指摘されても平らかに承知し大らかに受容した上、本格的に自家製療育を始動した小学4年生 −−− 中高一貫校を目指すお子さん達なら受験勉強を始める時機ですね −−− から数えれば12年間に渉って勉強し続けた成果をつらつら鑑みるに、最終学歴が中等教育であれ高等教育であれ多様性発達者としての成長を叶えるため修めるべき学びの本質は「大人のリテラシー」だと考えるようになりました。

「リテラシー」という言葉は旧来「読み書き能力」という意味でしたが、近頃は「情報を的確に読み解き、それを活用するために要する力」を意味する用語。そして「大人のリテラシー」とは、自我他我の両方から感受・認知した情報を的確に読み解いた上、自身にとっても他者にとっても最善を導く選択は何か模索できる力 −−− 知識と知能=専門性能知恵=対人性能の両方が概ねバランス良く成熟した状態 −−− を意味しています。

勿論、定型発達のお子さんであっても「大人のリテラシー」は修めるべき学びの本質である筈ですが、「普通」の育ちを辿ったケースは概ね「みんな」に倣うだけで楽をして単位を揃えられる。つまり感受・認知した情報を意識的に読解・模索せずとも天然自然に妥当・相応な行動化が叶ってしまうため、「普通」の枠に嵌め込まれたままの地平をわざわざ離陸せずとも「みんな」大過なく平穏に齢を重ね所属を得て来たのでしょう。

しかし人間の社会を牽引して来たのは常に、自我他我の両方から感受・認知した情報を的確に読み解いた上、自身にとっても他者にとっても最善を導く選択は何か模索できる力、すなわち「大人のリテラシー」を備えた人格だったことを歴史が証明しています。

早熟の才能が顕れなかったとしても「普通」の枠に嵌まらない多様性を備えたお子さんは、「みんな」が立つ地平を離陸し自己の向上を志す「特別」な俯瞰へ飛躍しうる晩熟の可能性を大いに潜在させている旨、十全に汲んだ修学支援をこそ願って止みません。


【補記】Polymorphous Developments=多様性発達者とは……
定型発達からの逸脱を呈しつつも、発達障害的な行動を表出させない「合理的配慮」を自ら体得できた症例です。信州大学医学部付属病院 子どものこころ診療部本田 秀夫 先生が仰る、「非障害自閉症スペクトラム」に想を得ていますが、拙文における「多様性発達者」の定義は、専門医の診断も専門家の療育指導も、その有無を問いません。

2017年7月23日日曜日

「藁」を糾える文化

史上最年少で将棋のプロ棋士にデビュウなさった藤井 聡太 四段が、早熟の天才として世間の耳目を大いに集めています。もう30年近く前の話なので時効と判断して書いてしまいますが、彼が在学中ということから些か話題にも上った中高一貫校は、私が大学4年生だったとき教育実習をさせて戴いた教育学部の附属校だったり……

中学2クラス・高校3クラスと規模が小さいので入学する上では難関校と言えますが、一般的な意味で難しい学校ではありません。入試で学力考査は行うものの、『教育学の実践と研究に取り組んでいる』ため学業優秀な生徒ばかり偏在するのは集団として望ましくないという事情から、合否を決めるのは『総合的な見地』なのです。

では何を以て『総合的』に判断されるのかといえば、検査内容は
I   小学校で学習した内容の総合力を問います。 
II  作文等で思考力、表現力を問います。 
III グループ面接等を通して個性を見ます。
とのこと。塾に通って懸命に過去問を攻略した上で挑戦するような偏差値的に難しい学校ではありませんが、お子さんを育んで来たご家庭の「文化」が露呈します。

そして「評価」ではなく『見地』なのですから、習熟していれば合格できるというわけでもない。未熟な部分があるからこそ、入学を許可される例さえあり得ます。

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実は藤井 聡太 四段も、破格の棋力や読書の嗜好から大人びた印象が先行していますが、お母様から御覧になれば『まだまだ子ども』で未熟な部分も大いにある模様。つまり抜群に早熟な所と存外に未熟な所、すなわち「普通」の枠に嵌まらない多様性を備えた生徒は『教育学の実践と研究』に於いて恰好の対象となりますので、先生がたは内心「受検してくれてありがとう!」と大歓迎なさったかも……などと妄想しています。

無論、学校側も実践と研究の対象として利用する一方ではなく、藤井 聡太さんの個性を尊重なさって手厚く指導しておられるご様子。例えば『そんな愚痴が、また可愛かったり』とお母様が言及なさった『宿題は おかしい』という認知の凸凹に対しては、担任教諭が学年主任も同席の平らかに話し合える場を設け、上から目線で常識だと押しつけることなく、宿題の意義を本人が充分納得して取り組むまで緻密に導いてらっしゃる。

そして棋戦を勝ち進むにつれ平日にも対局が組まれて中間考査に重なった折は、再試験を行うのではなく『日頃の勉学の取り組みを総合的に判断して成績をつける』と宿題の意義をキッチリ回収。まさしく1本では簡単に切れてしまう藁を何本も撚り合わせてもっと丈夫な縄に拵えるような懇切丁寧、「糾える文化」の好例を堪能させて戴きました。

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斯様に優れた『教育学の実践と研究』の場で薫陶を賜ったにもかかわらず、私自身の教員免許は以降ペーパードライバー状態。実のところ教職資格を取った動機は、就職せずに大学院へ進む交換条件として母親から指示された「宿題」でしかなかったのです。

とは言え、教育とは「藁」のように些末な事象も見過ごさず糾って丈夫な縄へ拵えるように「疑問を持って 詳しく調べる」工夫の積み重ね、という片鱗を実習叶った旨は決して無駄ではありませんでした。娘が生来持ち合わせた多様性を、上から目線で常識を押しつけ「普通」の枠へ嵌め込もうとせず、平らかに緻密に本人が納得できるまで言語化することで素人の私がどうにか導けたのは、名大附属での経験があってこそですから。

大人の療育支援の大先達であるサポートセンター名古屋の皆様から『このお母さんの お子さんは とても幸せ』と有り難いお褒めの言葉を賜れた所以も、遡れば同じ街で学んでいた御縁にありました。なるほど藤井 四段が担任の先生から受けた懇切丁寧な指導の通り、指示された時は理不尽だと思っても宿題はキッチリ済ませておくのが大切みたいです。

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特に重い要諦だったと思い返すのは、「ひふみんアイ」ならぬ「教師アイ」つまり教諭側・学校側の視点も併せ持つ俯瞰を会得できた件。就学前にして天賦の才を発露した藤井 聡太 四段とは真逆で、発達の遅延という「普通」の枠に嵌まらない多様性を指摘された娘が、二十歳を越えてようやく自発的に学ぶ歓びを心から実感できる晩熟へ到れたのは育ちに関わって下さった先生がたと「教師アイ」で協働叶った成果なのでしょう。

中でも最大の岐路は、父方の祖父や両親の感化で「自分も理学部志望だ」と偏狭に凝り固まっていた自己に対する認知の凸凹を、高校1年初頭に受けた職業適性テストを活用しつつ一挙に文理反転まで修整した経緯です。事実情報の集積に優れた自閉圏の特性ゆえ理系科目の成績が相対的に好調な旨に惑わされず、彼女自身の創造性を示す「藁」のように些末な事象も丹念に拾い集め糾って来た工夫が、現在の晩熟へと結実しました。

振り返れば娘の「藁」すなわち大学の専攻や資格講座など就労へ繋がり得る創造力の些細な徴候は、稀代の天才が顕した前兆ほど明瞭ではなかったものの藤井 四段がプロデビュウなさった道程の端緒と同様、幼い乳児の頃から呈示されていたと気づかされます。

彼が遊んだ知育玩具が持て囃される所以でしょうが、お子さんの『何をしたいのか』という自己理解は、親御さんの価値観を陰に陽に押しつければ簡単に千切れ擂り潰されてしまう「藁」のように些細な事象が端緒かも知れないと重々ご承知願いたい昨今です。

2017年7月18日火曜日

「藁」を糾えない文化

(わら;稲や麦などの茎を脱穀した後に乾燥させたもの)を撚り合わせ、
縄に拵える動作を表すのが「糾う(あざなう)」という言葉です。

今回は実際に藁から縄を作る話というわけではなく、比喩として「糾えない文化」と表題を付けました。1本では簡単に切れてしまう藁を何本も撚り合わせてもっと丈夫な縄を作るような、工夫ができない文化という意味ですね。

そして「糾」という漢字には、罪や真偽・事実などに対し疑問を持って
詳しく調べる行為を意味する「糾す(ただす)」という訓読みもあります。

藁を撚り合わせて縄を作る動詞には「綯う(なう)」という語句もありますが、「糾う」を選んだのは「疑問を持って 詳しく調べる」という意味合いも込めたかったからです。

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初期癌摘出のため5月に入院する少し前、発達障碍と診断された大学生のお子さんを支えてらっしゃる都内在住のお母様と、遣り取りさせて戴いていました。キッカケは、お子さんが通う私立大学で受けた支援について、お母様がブログに綴っておられた件。

発達障碍学生に対する修学支援は、障害者差別解消法の合理的配慮規定等として昨年4月より法制が施行されましたが、私立の大学等では障害者への差別的取扱いの禁止は法的義務とされた一方、遺憾ながら合理的配慮の不提供の禁止は努力義務となりました。

つまり私立大学で発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が担保されるか否かは、大学当局の任意の協力にのみ左右され、その達成度も大学当局の判断に委ねられるため、具体的な内容は申請手続から完了判断まで各大学の担当部署次第となっているのです。

そのお子さんのケースを拡散するのは本意でないため、どの私学か判らないよう問題点のみ記しておきますが、伝統ある名門校 −−− 国の中枢を動かす人材を何人も輩出してきたような −−− でさえ旧来対応していた身体障碍学生への修学支援を適応拡大するだけで、発達障碍に特化した支援を提供できていない現状は大いに憂慮すべきでしょう。

もう少し具体的に、そのお子さんへの支援が発達障碍に特化していなかった証左を挙げれば、サポートされていると意識させぬよう当事者の疎外感に対して極めて慎重だった反面、自我他我の認知に凸凹がある障害だからこそ必須な自己理解への支援が完全に欠落していた件です。 身体障碍支援では当事者にも明確に障害が「見えている」ので、学生本人が自身の特性を理解するサポートの重要性に考慮が及ばなかったのでしょう。

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「普通」の「みんな」より年数を要したものの、当事者の疎外感を刺激して不登校へ陥らせぬよう慎重に配慮した手厚い支援で、卒業単位を満了できた安堵も束の間。大学のキャリアセンターで教示された卒業延期措置の合理的配慮を適用しつつ始まった就職活動は、お子さんが『何をしたいのか わからない』という認知の凸凹で阻まれました。

「『藁にも縋る』の藁だったんです。」

就活がうまく進まないのはお子さんが自分の志望を把握できていない所為であり、キャリアセンターの就職支援に不備不足があるのではなく、学生相談室が施した修学支援に発達障碍で必須な自己理解へのサポートが欠落していた結果……そう解題を試みた拙コメントへ応じて下さるお母様のお返事には、深い悔悟と無力感が滲み出ていました。

「普通」の「良いお母さん」から御覧になれば、大学当局が修学を支援して下さるなら当然、簡単に切れてしまう藁ではなく丈夫な縄のように確実なサポートで就職へ結びつけて戴けると頼みにし、中学高校までと同様に「先生」が仰る旨を諾々と傾聴して励行さえすればお子さんを成功へ導けるはずと期待なさるのも、無理はないのでしょう。

ところが実際は、私立大学で発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が担保されるか否かは大学当局次第であり、現に信頼なさってきた相談室の「先生」は、お子さんの卒業単位は揃えさせてあげたのだから後は学外の就労移行支援事業所へどうぞ、と言わんばかりなのですから、手厚い修学支援を思わず「藁」と蔑称した本音も止む無しです。

このご家庭のケースで殊にお気の毒だったのは、親御さん側にも「藁」を糾って丈夫な縄へ拵える工夫を凝らせない、ご事情があったこと……「糾えない文化」が醸成されてしまったご家庭で育てられた当事者さんが、同じく「糾えない文化」が醸成されていた大学に入って深刻な不適応を発現し支援を要する状況へ到った次第です。

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昨年9月に『うまくいかない文化』で記述した解題の繰り返しになってしまいますが、「普通」の「良いお母さん」が「普通」の枠から大きく外れた五感や認知を抱えるお子さんへ、懸命に寄り添ってらっしゃるおつもりでいながら「うまくいかない」要因には大きく二つある、と私は考えています。

第一の陥穽は、「普通」の枠から大きく外れたお子さんの危うさを直感した際、我が子を成功へ導けるよう親御さんが先回りして失敗を避ける(失敗しても見て見ぬふりが出来る)段取りを整えておく策こそ「最善」とお考えになってしまう件でしょう。

と申しますのも、どんな失敗を/どんな原因でしてしまったか?/どんな対策で防げるか?という「疑問を持って 詳しく調べる」段取りを当事者自身と共に整えていく「失敗体験」こそ、最も重要かつ効果的な自己理解への支援になるからです。

しかし例えば理系科目で好成績が取れる旨を理由に専らその方面へ注力させ、感じたことや思ったことを言葉や文章に表すのが苦手で失敗した経験には理系だからと見て見ぬふりを続ければ、大学卒業まで歳を重ねても自我他我に対する認知の凸凹は未修整で放置され、いざ就活という時に自分の志望さえ言語化できない障害へ陥ってしまいます。

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そして第二の支障は、「良いお母さん」が「普通」以上に優れた段取り力をお持ちであるがゆえ、お子さんへの支援の助力を仰ぐべき大学の担当部署へも、常にお母様ご自身が思い描く「最善」を希求しがちになってしまう件だと私は思います。

と申しますのも、大学という場は学ぶ当事者である学生自身が「疑問を持って 詳しく調べる段取りを一定程度は習得している前提で運営されてきたため、中学高校までとは異なり大学当局からの自発性の誘導や自己理解を支援するアクションは無くて当然だったから……それでは認知に凸凹を抱えている発達障碍学生に提供されるべき合理的配慮が充分には担保されないだろう、とトップダウンの法制化へ到った経緯でもあります。

ゆえに「普通」の「良いお母さん」が「普通」の枠から大きく外れた五感や認知を抱える大学生のお子さんへ寄り添う必要が生じた場合は、「普通」の価値基準で「最善」を判断してお子さんが失敗する前に先回りし段取りを取捨選択してしまう「糾えない文化」からは一旦離れて、「藁」のように頼りなく見える伝手であっても丹念に撚り集め「糾う」努力でお子さんにピッタリの「縄」に拵えていく工夫が必要になるのです。

過去の次第を深く悔悟すればこそ、お子さんの未来を深く憂慮すればこそ、工夫が叶う現在は「良いお母さん」からすれば一見無価値な脆弱な藁でも何本も撚り合わせ丈夫な縄に「糾える文化」を、まずはご家庭内に醸成して戴きたいと願って止みません。

2017年5月14日日曜日

ママは いつでも 元気だよ

昨年10月下旬以来、またまた更新が滞っておりました間にも、
過去記事のご閲覧、誠にありがとうございました。

この度の休止中は、娘の就労支援を見据えた「予習」−−− サポート業界では「就労移行支援」という事業もあるそうですが −−− すなわち『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』といったTransferable Skill=様々な業界や職種に転用可能なスキルを自得させるべく、所属学部やサークルなどの人脈を伝手に「苦手を避け社会と呼応する知恵の発露を促しておりました。

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と言っても娘から「ママは『お母さん』ジャナクテ『将軍』」と評された「変なお母さん」ですので、戦略戦術を策定する専門性能と前線兵站を統帥する対人性能を発揮したがるのみ。実務に充てるべき代行性能は、滅多に発揮しませんw つまり具体的にしていた「予習」とは、専らに娘が経験した「毎日」を傾聴しつつ、不備不足が散見される彼女のメタ認知を補完し、対人関係の機微を解題・蓄積すること。

サポート業界で言えば、カウンセリングが近いのかも知れませんが −−− 理学部出身で、大学・大学院・創薬ベンチャーという職歴のオカンは『問題解決のための情報収集力・対人コミュニケーション力・組織対応力』ならバッチ来〜い!な一方、大学の専門科目として臨床心理学や社会心理学を学んでいるのは、娘の方ですので −−− 双方の関係性カウンセラー/クライエントのそれとは全く異なっています。

コーチングメンタリングの方が、より近いかも?ですが、技術をきちんと学んだわけでもなく。理系女子の試行錯誤で叶えてきた「自家製療育」が期せずして、信州大学医学部附属病院・子どものこころ診療部の本田 秀夫 先生が提唱なさっている『新キャリア教育』 −−− あるいは単純に社会と呼応する知恵の一つである「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣 −−− へ結着できたのだと考えています。

そんなこんなで娘の懸案事項は、まず2回生の前半で一般教養の必修科目と国家資格取得の夏季集中講座を、まずまずの好成績で履修完了。かつ秋学期は順調にゼミ配属の段取りを消化し、第一志望の教授から次年度以降のご指導を戴ける運びとなりました。

ついでに選択科目2コマで、初めて単位を落とす「失敗体験」もやらかしましたが。在学中いつでも再履修で成績を上書きできるという、国立大学では考えも及ばなかった鷹揚な学風のおかげ様で、疎外感の生ずる隙も無く「成長体験」へ昇華叶いそうです。

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前置きが長くなってしまいました。つまり先日、娘へ家事の稽古を付けるため『起爆剤となる変事も勃発』と書いた件は、彼女の身に生じた懸案ではなく……

就労支援の「予習」が整ったところで、ようやく安堵の息をつき、5年前の高校受験を機に早期退職して以来ご無沙汰していた人間ドック健診を、3月初めに最寄りの病院で受けた際に、私が悪性腫瘍に罹患している旨が判明したのです。

健診で行われたスクリーニングの結果から精密検査のお勧めを郵送でお知らせ戴き、受けた初診の1週間後に癌診断のインフォームド・コンセント。

精査のデータを迅速に揃えて下さったタイミングで、その2週間後には、かつて勤務していた大学医学部の附属病院でセカンド・オピニオンを拝聴。

最初に受診した病院で提案された治療方針に従い施術して戴く旨を確定し、初診して下さった外来の医師から外科へ手術予約を申し送り願った上、更に2週間後は執刀主治医から改めて、より詳細な診断と治療方針のインフォームド・コンセント。

人間ドック健診から数えて2カ月と1週間目のゴールデンウィーク明けには、入院日程を見据えた周術期口腔機能管理のため歯科を受診できましたから、たいへん有り難いことに日本屈指と申し上げて良いほど最速かつ最善の医療を受けています。

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「健診で引っ掛かっちゃいましたけど、癌じゃなくてホッとしました〜」ではなく、紛うこと無き悪性腫瘍の診断。しかも今月下旬に手術を受け、その後は放射線治療へ移行する方針ですから、「普通」のお母様がたなら「気を揉む→心配が嵩じる→不安が募る→元気が無くなる」状況なのに、やっぱり私はいつもどおり元気

「こういうことになりましたので…」と心理カウンセリングをお奨め下さった外来の看護師長さんにも、がん医療連携手帳についてご説明下さった地域連携担当の看護師さんにも、せっかくいたわって戴いたのにアッサリお断りしちゃう「変な患者」で恐縮の極みですが。虚勢を張っているのではなく、ホントに元気なんです。

悪性腫瘍に罹患しながら元気でいられる理由は、自覚症状が全く無く適切な治療を施せば予後は良いと臨床研究で実証されている、初期段階で診断を受けられたことが第一。

そしてこれまでの履歴で積んできた知識と磨いてきた知能を以て、腫瘍が生じた理(ことわり)も治療方針の理も、心配や不安の生ずる隙無く解題・納得できていることが第二。

更に、自分自身と娘の「育ち」を通じて学ばせて戴いた、他者と関わり社会と呼応する知恵の一つとして、「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」の習慣が我が家の「文化」に根付いたことを第三に挙げるべきでしょう。

「保育園で指摘されちゃいましたけど、発達障碍じゃなくてホッとしました〜」ではなく、紛うこと無き自閉圏の特性を生来持ち合わせた娘が、人間ドックを受診した時から都度説明してきた精査の経過を傾聴しつつ、動揺せず平らかに、しかし臨場感を持って母が癌に罹った変事を受け容れている旨こそ、なにより尊い『励ます力』です。

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他者と関わり社会と呼応する知恵を終生自得できなかった義父と、親から顧みられなかった「平凡」を嫌厭する義姉の、隔絶の狭間で家族の「毎日」を支えるため神経を磨り減らしてきた義母は、折々の挨拶を寄越す唯一の孫娘へ宛て、彼女の母であり不肖の嫁である私の健康を、いつも過分なほど丁重に気遣ってくれます。

そんな祖母の問いへ『ママは いつでも 元気だよ』と応じるのが、娘の決まり文句。
この答えを彼女がこれからも返せるよう、「母の日」に快癒を誓いたいと思います。

2017年5月9日火曜日

An Easy Lonely Mathematician

保育園で『危うさ』を指摘された際に専門医の診察を受けていれば、高機能自閉症という診断が銘記されたであろう、拙宅の娘。彼女が抱える「多様性」は、3年前の初冬に亡くなった父方の祖父から受け継いだ可能性が、最も高いだろうと私は考えています。

私からすれば義理の父に当たるご老体は、本稿に題したとおり数学者として至って気楽な、しかし元来希薄だった他者への関わりを遂に一切喪失し、旧知とは全く疎遠な最期を迎えました。死因は肺炎でしたが、認知症の診断で随分と長く入院していたのです。

退官時に名誉教授職を拝命するまで大学での任を果たした義父でしたから、弟子に当たる方々も幾人かおられたようです。けれど義母は、認知症という病状を報知する件に越えがたい逡巡を感じたらしく、近親のみが集い密葬を執り行った後、不肖の嫁が急ぎ用意した喪中ハガキの文面で公の関係への御挨拶に代えさせて戴く仕儀に至りました。

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診断は義父の年齢から認知症ということになったものの、運動機能の急激な低下で始まった病状は、娘の「多様性」へ緊密に接していた私から見ると自閉圏当事者の主訴とも感じられました。つまり義父の経過は、娘の育ちを逆行しているように思えたのです。

大学を退き故郷へ移転した後も、非常勤講師や翻訳(数学者の習いで、英語と露語が使えました)のお声掛けを頂戴している間は、悠々自適の隠居生活を愉しんでおりました。しかし体調を崩し仕事を一旦お断りした途端、あっと言う間に知識・知能が衰退していきました。

ただ、他者と関わり社会と呼応する知恵については、終生自得に至れなかった模様。専業主婦の義母が「毎日」を仔細綿密に支え続けたからこそ、実の娘(私にとっては義理の姉)と隔絶しながら、当人的には安閑のうちに孤高の人生を全うし得たのだと思います。

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義理の姉が何を厭うたゆえに、孫に当たる長女長男を実父の告別にさえ参列させぬほど疎遠になってしまったのか? 理系な弟嫁には2年半経っても依然、不詳なままです。

元より「変なお母さん」を自称し不調法を憚らぬ私ですから、子を二人ともに小学生から受験勉強へ邁進させた義姉とは、お世辞にも相性が宜しかったワケがなく。実弟に当たる夫の方も長年の無沙汰を解消する機微は無いため、以下は推察に過ぎませんが……

義姉が嫌厭し続けているものの正体は、父や弟とは違って「普通」の枠から外れることが出来なかった彼女自身の「平凡」かも知れない、と私には感じられてしまうのです。

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義姉の長女(拙宅の娘にとっては、2歳年長の従姉妹)は中学生の時分からいわゆる美術予備校へも通った後、念願叶って私立美大の双璧へ現役合格しました。とは言え、それ以降の様子は義母から伝え聞く限り、八王子と小平のどちらを選んで学んだのかも、順当に進級していれば卒業した筈の今年度はどんな進路を選んだのかも、残念ながら分かりません。

また昨年2月に拙ブログで言及した長男A君の件は、義姉の夫君(拙宅の娘にとっては伯父)から義母へ、一周忌に次いで三回忌へも不義理を重ねる陳謝と併せ1年遅れながら二度目の挑戦で志望校へ入学叶った知らせが、予備校の合格体験記公開と同じ頃に届いた由。

努力の義務履行に見合った「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「△△大学の★★学部生」といった所属意識は、人格を構築していく基盤として確かに大切ですけれど……

生まれ持った多様性を保護者が疎外/当事者が卑下していることで「育ち」の大局を歪めてしまう第一の分岐こそ、最優先で手厚く顧慮すべきでしょう。「普通」の枠から外れていない兄弟姉妹へも人格を尊ぶ敬意と個性を言祝ぐ仁愛を向けることは、お子さん達の「毎日」を支えるご家族にとって等しく重視されるべき要諦と私は考えています。

>>後篇『A Hasty Lonely Cassandra』へ続く

2017年5月4日木曜日

ひきこもらせない文化

この2年半あまり、発達障碍の二次障害で通うべき所へ通えなくなってしまった当事者・ご家族・支援者の日常を、拝読拝聴する機会に様々な奇遇で恵まれて参りました。

その『励ます力』を繋ぐ御縁に接しつつ、私自身がずっと抱き続けていた疑問は、お子さんが不登校からのひきこもりに陥ってしまう家庭と、すったもんだがありながらも通うべき所へ通い続けられる家庭を、分かつ「決め手」は一体なんなのか?ということ。

無論、不登校・ひきこもりのハイリスクを抱える我が娘の就学就労支援に備えるべく…との必用もありますが、そもそも私自身の好奇心が提起して止まない疑義でした。

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この疑問へ「不登校・ひきこもりになるか、そうならずに済むかを分けるのは、障害特性の程度に決まってるでしょ」と即答なさるのは、僭越ながら机上の学問へ没頭するのみで当事者さんを支えるご家庭それぞれの「毎日」に接しておられない専門家の方々。

されど暇に飽かせてネットの渉猟を広げてみれば、生来のいわゆる特性が「個性」の範囲で社会適応へ向かうか/「二次障害」へと増悪してしまうか、当事者さんを取り巻く育ちの環境=家庭の文化で大きく左右される「毎日」がリアルに綴られているのです。

「障害」を生じさせているのは当事者の特性ではなく調整不全の不合理へ陥った育ちの環境の方…という仮説は、金沢大学子どものこころの発達研究センターが監修した『自閉症という謎に迫る 研究最前線報告』の第4章で三浦 優生 先生が展開なさった自閉的な行動パターンの表出には文化的影響が関連する』という考察にも合致します。

さらに実際の類例からは、他者と繋がる知恵を育めなかったゆえに社会へ背を向けがちになる彼らの「障害」が適応へ向かうか・増悪するかの岐路が、生まれ持った多様性を「個性」として保護者が受容/当事者が承認しているか・「障害」として保護者が疎外/当事者が卑下しているかで、まず大局を定められていく次第が垣間見えて来ます。

注視すべきは、この第一の分岐に於いて
専門家から下される診断が必ずしも善処へ向かう要諦にはならない

すったもんだがあっても「通い続けられる」ケースでは、特性が「個性」と「障害」の狭間にあり幼少時の見立て(保健師・保育士や幼稚園教諭などの指摘)をスルーしてしまった経緯に親御さんが綴っておられる後悔を多々拝読しましたが。診断で「障害」と銘記されなかったからこそ、お子さんの不備不足を平易に受容・承認できたとも解釈できるのです。

むしろ、それまでは「個性」と捉えていた「普通」の枠に当て嵌まらないお子さんの発達の凸凹へ、部分的な不適応(限定的な逃避や状況的な緘黙、特定課題の不消化など)を契機に「障害」という認識が賦与されてしまったことで、疎外感を喚起された親御さんの動揺からせっかく醸成されていた「うまくいっちゃう文化」が損なわれる危惧さえ生じ得ます。

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加えて拙宅の発達障碍当事者「自家製療育」を振り返って試みた解題に拠れば、彼らの「ひきこもらない力」すなわち社会の中で自己実現の主体となるべき人格の獲得には、「自分にピッタリの、でも息苦しくないペルソナ=自己の外的側面」が必須。

つまり、努力の義務履行に見合った成果としての「肩書き」を名乗る権利行使、例えば「〇〇高校の☆☆クラス生」とか「△△大学の★★学部生」といった所属意識が、発達の凸凹を補填しつつ人格を構築していく基盤として、思いのほか大切らしいのです。

確かに不登校やひきこもりへ陥ってしまう経緯は対人的な不適応の発生とは限らず、学級や学校に対する帰属感が順当に得られなかった、あるいは少しずつ希薄になってしまったため「ひとりでに」自信を失い通えなくなったケースも相当数を占めている模様。

殊に大学以降の不適応では、他者から与えられた課題であれば知識(=既得の事実情報)と知能(=鍛錬した思考過程)を駆使できる学力を備えていながら、自身の未決問題(例えば、今学期はどの講義を受けるか? 卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 大学卒業後はどんな仕事をするか?)には回答する術を俄然見失ってしまうタイプのお子さんが「ひとりでに」自信を喪失→休学で再起を待機しても実効策を打てぬまま中退→ひきこもりへ至る事例が散見されるようです。

これら「大人のひきこもり」で予後の良し悪しを分かつ「決め手」は、自律的な生活習慣を支援者が稽古/当事者が体得できたか? 失敗するフリーハンドを支援者が許容/当事者が行使できたか? の二点であると複数の典型例から拝察させて戴きました。

支えるご家族からすれば、意外に感じられるかも知れませんが、
この第二の分岐で要諦となるのは学力でも職能でもありません

なぜなら通うべき所へ通えなくなった当事者の不備不足は、「普通」なら「ひとりでに」獲得できる筈の自己を掌握する能力=人格が、生来抱える五感や認知の凸凹ゆえ十全に発達し得なかった旨こそ主因。五感の凸凹へ自ら配慮できる生活習慣と、認知の凸凹が招いた失敗から我慢を自得する経験が、彼らにとって一番必要な支援だからです。

そして二次障害を防ぐため/二次障害からの再起を促すため、当事者の「毎日」を支えておられるご家族に最も必要とされるのは、特性を理解する好奇心と 人格を尊ぶ敬意と 個性を言祝ぐ仁愛だと私は確信します。お子さんの特性を疎外する劣等感でも 人格を軽んずる庇護でも 個性を圧殺する共依存でもないのは、言うまでもないことでしょう。

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さてさて斯く申す拙宅も、認知の凸凹を自己修整できる我慢と所属意識の育成を優先し、ずっと棚上げしてきた自活に必用な家事を、ようやく娘へ稽古付け始めました。

3年生への進級と共に、卒業研究はどんなテーマに取り組むか? 修学後はどんな仕事に就くか?という未決問題へ彼女なりの回答を創造できつつあるためですが、実は起爆剤となる変事も勃発した所為だったり……その話は後日、追々綴らせて戴きましょう。